鷺泉随筆(三) 南蛮の話



 南蛮の称呼は沖縄の人に聞かせたら直ぐ古酒を貯える壺を連想する。
それを花活に使うとか、水差しに用いるとの話をしたら緊張した感与が薄らぐ。

 所が他府県人に向かって、南蛮の事を話したら彼等は先ず以て花入れか何か床のものを予想するに極まっている。
其の処へ土蔵の中に入れて酒を貯える話をしたら、沖縄人とは反対に目を丸くして驚くであろう。

 こうなると南蛮焼は生まれた故郷よりも、却って他国に於いて出世をするという事にもなるが、
而し夫は見様次第で、此南蛮焼が在る為に沖縄では何処にも無い泡盛の古酒を作って、
世界に誇ることが出来るので、此点に於いては南蛮焼も故郷の為に本望を遂げたとも言い得らるるのである。

 近来京阪に於て沖縄の陶器が段々声価を挙げ、茶器や陶器の雑誌類にも、沖縄陶器の話が続々現われ、
殊に南蛮焼が俄かに人気を集め、態々此を捜しに琉球までやって来る人も多くなったので、
俄に騒ぎ出す人もあるが、此は何も今に始まった事ではなく、好事家や識者の間にはとうの昔よりわかった事で、
今更怪しむに足らぬ事柄であるが、此機会に琉球焼南蛮に関して一通りの概識を話そう。

 第一南蛮という名称だが、此陶器は由来下手物の部類に属せし為、愛好家の間にも別段産地、
年代などを調べて買った訳の物ではなく、単に形状や景色が面白いものがあれば取り上げて
珍重した迄で、又産地に於ても精窯の諸器物に見る如き製作の年代月日などを記せし物なく、
取り扱う人々も只漠然と嶋物と云う名称を附して、産地時代の詮議をよりも品物の優劣に重きを置いて
取引をせしに過ぎなかったが、近来に至り木米、其他製陶の名工等が南蛮焼の写しを作り、
此に自己の名を附し出でせしより、却って本歌よりも模作の方が時代産地も明確に分かる様になったのである。
夫に南蛮という字義が支那の文献より起こり、例の中華思想より総括的に北の国々を指しては北狄と云い、
南方の諸国を呼びては南蛮と唱えたのが始まりで、其南蛮と云う国々の中には邏羅、安南、馬刺加等と共に
いつも琉球の名称は明らかに出てくるのである。そんな訳で本邦にても、南蛮に就いては漫然と
支那の称呼を襲踏し来たって、近年迄も膝元近くに昔から憧憬るる名陶の産地があるを気付かずに居ったが、
時勢が開き行くと共に、琉球の陶器の事が段々と世間に知りわたる結果は、二三十年前より既に中央の窯業家が
密かに琉球に渡って来て製作せし事跡あり、其中最も著名なるは黒田理平庵にて、此人は長く琉球に滞在して、
陶土と釉薬を研究し南蛮焼と刷毛目窯に就て、非常の苦心と努力を払いし結果、幾多の名作を残して
琉球陶器の声価を高めし大功労者である。夫に次いで浜田庄司氏も琉球の古代趣味を巧みに利用して
此又多数の一品を携えて帰郷し、夫より二三年後には北京を往来する骨董商沢田氏が、支那より翡翠、
桃玉、其他宝石の破片等、種々の貴重なる材料をば送り来り、琉球の陶土に混じて不思議の名品を出だせし事あり。
爾来数年間の琉球の窯元たる壺屋も別段変わりし事はなかりが、一昨年に至り京都南蛮焼の名人
真清水蔵六翁が七十余の老体を携えて来琉、1ヶ月程滞留して、刷毛目や天目、其他南蛮焼の器物を作って
持ち帰りしより、内地の陶器熱の昂上と共に、琉球陶器の評判が一層高まった次第である。

 然らば琉球の南蛮と云う焼物はどんな物か、以下簡単に其の概略を述べる事にする。
 元来、此南蛮焼の鑑定は頗る六ヶ敷く、何を云っても其品物は各時代を通じて
各方面より出てきた粗窯の1つにして、而も、出窯の年月日もなければ、産地の記録も無い。
若し厳密に此の審査分類を企つとすれば、南蛮の出た各地の窯元を探討して、器物なり、
破片なりを集めて比較対照して見なければ分かるものではないが、只琉球窯出の南蛮焼だけに対しては
いつも見慣れているので其特徴は略解説が出来るのである。

 偖、琉球の南蛮窯は最も変化に富み、厚手もあれば薄手もあり、
紫、紅、赤、黄、苔、銀、鉄、鉛、黒の各色備わざるなく、夫に光沢の強きものもあれば、
焦渇して沢のない物もある。又肌地にも石弾貝殻の様な物が現われ又人工にて態と作りし如き金気、
鉄気の現るる物もあり、千態万様其標準は中々定め難い物であるが、先ず特徴として一番分かりやすい点は
、 指で弾けば磬の如き鏗鏘の音を発し、摩擦する程よい光沢が出ることである。

 そして上物としては肌身がケンザリとしていて、硬度の高い気持ちがある。
地には美しき夕焼色の中に紫鉄の焦渇せる気味を帯び、時に金気、銀気を現わし、
得も云われぬ各種の景色は、花入れに、香合に、水差しに、侘茶人が垂涎措く能ざるものである。
中品は重に黄褐色の中に鉄気を含み、光沢の堪なき物と多き物あり。
上物に比すれば景色の変化に乏しき憾みはあれども、此手の中にも雅チに富める作品などありて、
好事家に愛用せらるる向きもすくなからず、又時々柔らかい気持ちよき赤みを帯びる事もある。

 下物と云うは一見肉厚く、き軟の気分あり、総体に屋根瓦の火色の如き鈍き赤みを帯び、
光沢も相当あり、この種の中にも切溜形や、其他花器に使用せられて、他県へ移出せらるる品物も
すくなからざる様なれども、概して此手は窯色の変化に乏しく、旦肌身に黒き痣の如き汚点を存するものも
度々出ずるに因り、三種の中にはなんとしても下級品たる事は免れないのである。

 以上は素人にも分かり易き様に、大体の区別丈を記せし積もりなるが、
元来南蛮焼は他の陶器と異なり、土質や風露の関係に因って、同一の場所に於ても
種々の窯変を出し、夫が却って特色ともなるので、此を詳述するには中々筆紙の?
くす可きに非ざれば、南蛮を愛好せらるる人は可成多く実物に就て比較研究有らん事を希望する。


【参考】「北狄」、「東夷」、「西戎」、「南蛮」という様に中国中心の考え方から周辺国を下に見る
晋書第六十七巻(四夷) 序言・東夷伝・西戎伝・南蛮伝・北狄伝 「隋書」に「琉求」
3世紀、三国志の時代から、中国でも存在は知られていたようですが、 国によって異なる名前で
  呼ばれていたようで、どれが台湾なのかは分からないということです。隋・唐の時代は
  琉球、留仇、流求、琉求、瑠球と称され、明洪武年間には、小琉球、鶏籠、北港、東番、台員、台円などと呼ばれ、
  大琉球とよばれていた沖縄と混同される事も多かったようです。
出典:解体晋書 http://www.jin-shu.com/jo/



松山王子尚順遺稿   尚順遺稿刊行会版より